旅する小鉢

我が家のご飯の記録と、ご飯を通して考えたこと。

鮭と野菜の生姜味噌煮


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鮭、白菜、玉ねぎ、舞茸を味噌と生姜で重ね煮したものを夕飯に出した。2歳0ヶ月の娘は食べず、「チータ(チーズの意)」と要求してくる。ここのところ料理をさぼっていた後ろめたさはあったが、せっかく久しぶりに用意したご飯だしと思って娘に話した。「お母さんこれ◯◯ちゃんに食べてほしくて一生懸命作ったのよ。だからこれを食べてほしいな」。娘は「ちがう」「いや」と拒否。保育園の先生に、食べなかったらさっと下げて気分転換してもいいですよと言われたことがあったので、「じゃあもうごちそうさまね」と言って終えようとしたがぐずりだしてしまった。

抱っこ抱っこというので抱っこし、抱っこのまま床に座って話した。「◯◯ちゃんがチータ好きなの知ってるよ。食べたいの分かるよ。でもね、お母さんご飯作ったから、これ食べてほしいのよ」。じゃあ抱っこで食べる?と聞くと娘はうん、と頷いた。わたしの膝に座らせ、お魚たべてみる?美味しいよ、というとうん、と言う。箸で鮭を娘の口もとに持っていくとパクっと食べる。それでここぞとばかりに褒めちぎった。そうしたら娘は泣いた目でわたしを見上げてキラキラの笑顔を見せてくれた。もう一口?と聞くとうん、と言い、またパクッと食べてくれた。そうやって鮭、玉ねぎ、舞茸は食べた。でも白菜は食べなかった。「白菜食べる?」と聞くと「はくさいたべない」ときっぱり。

それでも、話して納得してくれたからここまで食べてくれたのか、と思うと、言葉によって心が通った感じがあってとてもあたたかい気分になった。ご飯を作っても、器によそって娘の前に置き、食べなかったら「食べないのね?じゃあ終わりね」で下げていたらそれまでのことだっただろう。ということは、娘は食べたくないという欲求をわたしの言葉を理解したことで変えてくれたということだ。人間だ、と思った瞬間だった。

娘が大きくなったら多分もうこんな会話はできない。できないというか、大人はそんな会話はしない。今の母が今のわたしにそんなことを言う図があまり浮かばない。「食べたいもんだけ食べ」と言うと思う。でも、そんな会話をしないだけで、お母さんが作ってくれたのはありがたいけど、とは感じると思う。そしてお互いの関係にそういう根底があることが大事なんじゃないのかな?そういうお互いへの思いというか尊重を形成するために、今まだ小さい娘に「あなたのために作ったから食べてほしい」と伝えることは押し付けがましいことではなく、むしろ必要なことなのではないか、と少なくとも今のわたしは思った。

と書いてもまだ良くわからない。言葉が理解できるようになった娘を、言葉で矯正したり操ったり騙したくないと思う。でも今の娘に「食べないなら食べないでいいよ」といって終わるのはなんだか違う気がする。とりあえず、これ美味しいよ、お母さんは全部食べるよ、と言いながらわたしは娘の前で自分の分を食べた。本当に美味しいと思いながら食べた。