旅する小鉢

我が家のご飯の記録と、ご飯を通して考えたこと。

食べる人が偉すぎる

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ラジオを聴いていたら土井善晴さんが出てきて、日本のお母さんたちは「料理は美味しくなければならない」「みんなを喜ばせないとだめ」というプレッシャーにさらされているとおっしゃっていた。「今日は味薄いで」「あっそ」でいいのだと。料理をする、という過程が大切なのであって、作る人が作ったものを食べる人が評価するものではないと。日本では「食べる人」が偉すぎる、という言い方をされていて、そのシンプルだけど新鮮な表現が新鮮だった。スイスとフランスでも修行されたそうだけど、ヨーロッパでは食べるときにそれぞれがクリームを添えたり塩こしょうしたりして好きな味に仕上げるのだそう。そういえば昔スペイン語の勉強をしていたときに、そうやって最後に自分の皿で味付けするという意味の動詞(aliñar)を習った。そのときは、どうしてそんな意味を持つ動詞がわざわざあるのかと思ったけど、言語ってほんとうに文化そのものを反映しているんだな、と腑に落ちた。


話が逸れたけど、そうやって食べる人が調理に参加するという積極性がヨーロッパにはあるらしい。日本では食べるという動作が受け身ですねと。たしかに食べるという言葉をあまり主体的な意味の動詞として認識していなかったような気はする。昔、父がレストランで注文したスパゲッティに醤油をかけたいと頼んだら、もう味はついていますとか何とか言われて断られたらしい。作った人に失礼な、とそのときは思ったけれど、積調理に参加するという意味では積極的な行動とも言えるかな。

 

それぞれの国で、毎日食べても飽きない、健康を害さないものがあるはずだから、あれこれ食べなきゃ、昨日と今日と違うものを食べなきゃ、と考えなくてもあるものを食べればよい、ともおっしゃっていた。そう思ってもなかなか難しい。作らなきゃ作らなきゃと思ってしまうし、昨日の残り物が多かったり品数が少ないとなぜか申し訳ないと思ってしまう。でもそんなことないのだって。その分、いかに丁寧に綺麗にするかは考えるのだそう。白いごはんでも赤い茶碗だと美味しいでしょう、とおっしゃっていて、あ、それはわたしも大切にしていることだと思った。タッパーに入った冷凍ごはんを電子レンジでチンするとき、一人だとそのままタッパーから食べるけど、夫に出すときは茶碗によそうなと。ええ格好しいなだけかと思ってたけど、大切なことだな。

 

写真はタコライス。ソースを塗って具材をどんどん盛るだけ。今日は冷蔵庫から出しただけだけど、それぞれは事前に料理した。こんな楽ちんな日でも、一応料理は料理と言えるかな。